ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」にも登録され、全国に名を馳せる古川祭は、町の高台にある気多若宮神社の例祭で国の重要無形民俗文化財にも指定されている伝統神事です。
この祭りは、古式ゆかしい神事「御神輿行列」が中心となって、“動”の「起し太鼓」と“静”の「屋台曳行」が二大祭事として加わった三つの行事群からなり、4月19日、20日の2日間に渡って盛大に繰り広げられます。
飛騨の祭りは神社へ参詣するのではありません。
氏の祖神と、土地の守護神が合一した氏神の神霊が、高いところにある山の神社から年に一回地域内へ降臨される神降しの日なので、これに献供し、慰め和ますのが祭りの行事となっています。
気多若宮神社本殿では厳粛な神事が執行され、闘鶏楽の鐘の音が鳴り響く中、御神輿へ御分霊が移されます。
一方で、御神輿を迎える準備として各屋台がそれぞれの町内を曳行します。
御神輿行列は、神楽、雅楽、闘鶏楽、獅子舞、それに案内役を意味する各屋台に代わって台名旗(屋台の名称を書いた旗)が連なります。
夕方、御神輿が御旅所に到着し安置されると、御旅所は夜を徹して警固されます。
朝、各屋台は御旅所前に集まり曳き揃えられた後、所定の場所に移動し再び曳き揃えられます。
屋台囃子を演奏したり、からくり人形や子供歌舞伎の奉納芸能が披露されます。
御神輿は市街地を巡行し、気多若宮神社へと還御されます。
夕方、各町内の屋台が決められた場所に勢揃いし、夜祭の屋台行列が町内を巡ります。
4月19日の夜、裸の男たちが大太鼓を載せた櫓を担ぎ、激しくぶつかり合いながら古川の町を駆け巡ります。この起し太鼓は、祭りの始まりを知らせる目覚まし太鼓が起源と言われており、時代の変化とともに今のカタチへと変化していきました。
起し太鼓の先頭集団は、高張提灯や丸子提灯が連なる幻想的で美しい提灯行列。ここでは女性や子供はもちろん、住民以外の方もいっしょになって古川の町を練り歩くことができます。そしてその後に続くのが、この祭の主役「起し太鼓」です。
打ち出し会場となるまつり広場に、数百人の男たちによる祝い唄の唱和が響きわたると、いよいよ起し太鼓の始まりです。大太鼓を載せた櫓が動き出し、それを追って各町内の「付け太鼓」と呼ばれる小太鼓が続きます。付け太鼓を大太鼓の櫓に最も近づけて進むことが名誉とされているため、激しい先頭争いが深夜12時ごろまで繰り広げられます。また付け太鼓をくくりつけた約3.5mの棒を垂直に立て、その上で繰り広げる曲芸「とんぼ」も見所のひとつです。
櫓の上で大太鼓を叩く主役「太鼓打ち」は、氏子たちの憧れであり、一生に一度しかできない特別な役目です。太鼓打ちに選ばれた若者は自ら山へ行って切ってきた柳の木を、1ヶ月以上かけて磨き上げてバチを作成。想いのこもった太鼓の重厚な音が、人々の心の奥底まで震わせます。
古川では、祭りで使用する山車のことを「屋台」と呼んでいます。町中を曳行するだけでなく、屋台上でからくり人形や子供歌舞伎などの奉納芸も執り行われます。
屋台がいつごろ創建されたのかは定かではありませんが、江戸時代、1776(安永5)年に弐之町中組(金亀台組)で屋台が制作されたという最も古い記録が残っています。
古川祭の屋台を一言で表すとするなら、東西文化融合の結晶です。江戸からもたらされた屋台が飛騨の匠の技によって高められ、それに京都から入ったからくり人形が加わることで、独自の形式となりました。さらに、塗師の技術や京都の金具、織物までもが取り入れられ、今日見られるような絢爛豪華な屋台が形成されました。
現在、古川には現存している屋台と休台しているものを含め10台の屋台があり、各町内の宝物として大切に管理・保存されています。飛騨古川まつり会館では、実際に祭りで使われる3台の屋台を常設展示します。
19日は、10台の屋台が屋台蔵から引き出され、それぞれの地域で曳行されます。
明けて20日は、取決めた場所で屋台が曳き揃えられます。
また町の辻々では青龍台、麒麟台のからくり、白虎台の子供歌舞伎の奉納があり、絢爛豪華な時代絵巻を展開します。
20日の夜には、古川祭を締めくくる「夜祭」が行われます。提灯を灯した屋台が曳行され、古川の町に祭りの終わりを告げてまわります。小さく揺れる提灯に照らし出された屋台は、日中とは違った幽玄な雰囲気を醸し出します。
祭りの朝、気多若宮神社より御分霊をお迎えし、これを屋台の上段正面に御幣と共に安置します。この屋台だけが屋根がなくて、上部に金色の大太鼓を吊り、烏帽子、直垂姿の五人が奏する神楽囃子に合わせて二頭の獅子が舞い、屋台行列の先頭に立ちます。また外御所車と中車で三輪という珍しい屋台で、金色に輝く鳳凰が乗った大太鼓を大きく体を反らせて打つ様子は圧巻です。
文化年間の屋台は1891(明治24)年に廃台となり、1922(大正11)年に改築。完成した大正期を代表する屋台です。名前のとおり屋根の前後に大鳳凰が金色に輝き目を引きます。下段には初代村山群鳳の竜と越中井波の大島五雲の竜の白彫が競作の形となっていて、これらの彫刻を防護する金綱は、一本ごとに溶接という高度な技術によって作られています。
見送り 長谷川玉純 「鳳凰飛舞の図」 1922(大正11)年
創建は定かではありませんが現屋台は9ヵ年の歳月をかけて1933(昭和8)年に完成しました。唐子が運ぶ花籠から花が咲くと、獅子頭をかぶって乱舞するからくり人形が操られます。中段の側面には、十二支の彫刻がついているので自分の干支を探してみるのも楽しいでしょう。
見送り 前田青邸「風神雷神図」 昭和二七年
替見送り 玉舎春輝「日本武尊東征図」 1933(昭和8)年
1776(安永5)年に建造の記録が残っていて、これが古川の屋台の中で最も古い建造のようです。現在の屋台は1841(天保12)年に再建された古川で最古の屋台です。金具や彫刻、刺繍などに楽しい亀がたくさん使われていて昔の人の創造力の豊かさを感じさせます。
見送り 純金の糸を織り込んだ天竺からの船来のゴブラン織
「双龍図」 1841(天保12)年
替見送り 鈴木松年「亀上浦島の図」 1910(明治43)年
1886(明治19)年竣工の古川で最も大きい屋台です。
大きな昇龍、降龍の彫刻がひときわ目をひきますが、下段に信濃国諏訪清水寅吉の龍の彫刻があり、屋台建造当時の信州との交流をうかがわせます。中段側面にはこま回しや凧上げなどの昔の子供達の遊びが克明に彫られていて、楽しさも合わせ持つ屋台です。
見送り 垣内雲燐 「雲龍図」 1886(明治19)年
日、月、星の三光に因んで名づけられたこの屋台は、当町の蜂矢理八の設計のもとに、名工石田春皐により1862(文久2)年に完成したものです。やや小ぶりの形は、こじんまりとした町並みに見事に調和しており古川の屋台の特色を最も表しているといわれています。越中井波の名工大島五雲の白彫のぼたん獅子と網代に獅子紋散らしの浮彫が見事です。
見送り 幸野楳嶺「素戔鳴尊八岐大蛇退治の図」明治二十一年
替見送り 松村梅宰「虎図」 1862(文久2)年
1816(文政初)年創建ですが改築を重ね、現在のものは大工上谷彦次郎により8年間の歳月をかけて1941(昭和16)年に完成しました。中段の蜂矢理八の牡丹と唐草の彫刻は一木彫の見事なもので、この屋台の自慢です。清曜とは清く輝くという意味で、華やかな中にも清楚な感じのする屋台です。
見送り 今尾景祥「海浜老松図」 1946(昭和21)年
1842(天保13)年に完成した屋台を1981(昭和56)年から3年の月日をかけて大改修したものです。上段正面には源義経の武者人形を飾り中段の舞台では子供歌舞伎「橋弁慶」が華やかに可愛らしく奉納されます。
また彫刻や金具による装飾が少ないことや、下段が立ち姿で出入りできるほど高いことなど、唯一古い形態を残していて、たいへん貴重な屋台となっています。
金森氏の家紋の梅鉢を台紋とするこの屋台は、黒塗りに金箔模様の優雅で美しい外御所車が特徴です。
また樹齢1000年のけやき材の牡丹獅子も見事です。謡曲「鶴亀」に合わせてあやつられるからくり人形は大津絵「外方の梯子剃り」を題材としたもので、福禄寿の肩にかけた梯子を唐子が登り、亀が鶴に変わる巧妙な糸からくりです。
見送り 堂本印象「昇天龍」 1940(昭和15)年
1904(明治37)年の古川大火により廃台となり、女三番叟のからくり人形と猩々緋大幕のみが残っています。
古川祭で舞う獅子舞には、上気多の宮本組に所属するものと、屋台組神楽台に所属するものとがあり、どちらも笛・太鼓にあわせて舞います。宮本組の獅子舞は、御神輿の出発にあたり拝殿下の広場で、五頭の獅子による舞を奉納したあと、御神輿行列に付いて回るのに対し、神楽台の獅子舞は屋台と行動をともにしています。
鉦(かね)と太鼓の音で御神霊を鎮め慰める歌舞音曲を奏でる闘鶏楽。闘鶏楽組の青年と小中学生数十名が伝統的な文様の衣装を身にまとって御神輿行列に加わり、町内各所で舞いを披露します。甲高い和音とリズムから「カンカコカン」の俗称で親しまれています。一文字笠を頭につけ、白地に赤や紺色で鳳凰や龍を染めぬいた衣装を身につけています。
町内で御神霊を招来し奉祀する拠点。併せて台組関係の例祭や運営、経理等について協議し執行の任にあたる事務所です。室内の祭壇には、最上段に白い幣束を立て、お供えとして御洗米に御神酒、海の幸、山の幸などを供えます。祭壇の前には氏子からの沢山の献酒が並べられ、古川祭両日だけで約1万本の酒が奉納されるといわれています。
御神輿行列が近づいてくるのを知った人々は、道を清め、自分の家へ神様にきていただけるようにと、路面の真ん中に塩の道をつくり、そこから枝分かれして家の門口まで塩の道をひきます。昔は山から採ってきた赤土を町内の各戸に配ってまいていましたが、路面がアスファルトになり、赤土だと道が汚れてすべるので塩に変わりました。
親戚や知人を自宅に招いて「ごっつぉ」(ご馳走)やお酒を振る舞うおもてなし「呼び引き」は、古川祭が生み出した地域に根差す文化です。料理には地元飛騨で取れた米や野菜、富山湾で獲れた魚など、山のもの、川のもの、海のものに工夫を凝らし、手をかけた料理で客人をもてなします。飛騨の宴席では、祝い唄が終わるまでは席を立ってお酒を注ぎに回らないというルールがあり、飛騨の人は今でも大切に守り続けています。
人情味があり、がむしゃらで、ひたむき。一度決めたらとことんまでやり通す。そして祭りを通して培われた共同体意識で古川の町を支える。動と静のある古川祭のように、力強さと繊細さを持ち合わせた魅力的な飛騨の男たちの気風を表す言葉です。