Journal Vol.1
都竹 淳也さん(飛騨市 市長)
祭りの日は、神輿を頂点に
町の序列ができていることを実感します。
古川祭のPR動画。さらしを巻いた体にねじり鉢巻き姿、起し太鼓の最前列で提灯を掲げながら進行方向を凝視するのは、飛騨市長の都竹淳也さんです。祭りでは役職も年齢も関係なく、氏子たちが心を一つにして神事に挑んでいる様子が伝わってきます。
19日の試楽祭、紋付き袴(はかま)に裃(かみしも)をつけた神輿警護がずらりと並び、雅楽が聞こえる。神社から進んでくる行列の最後に続く神輿――。これを目にすると、神輿を頂点に町の序列ができている、そういった厳かな気持ちになります。昔から変わらない古川祭の神事の一コマです。古川祭は神輿行列と屋台の静の祭りと、起し太鼓の動の祭りと言われますが、厳密に言うと、屋台や起し太鼓は氏子による奉納なので、神社の行事ではありません。
神輿と切り離して屋台と起し太鼓の歴史をたどると、古川祭が時代に合わせて変化していく様子が見てとれます。
文献では屋台は江戸時代中期の1782(天明2)年、起し太鼓は1831(天保2)年に記述がありますが、現在の起し太鼓の形になったのは大正時代半ば~昭和の初めです。長く休止していたからくり人形が復活したのが1970(昭和50)年代、子供歌舞伎は1980(昭和60)年代からはじまりました。高校卒業後に入る台組の組織・若社(わかしゃ)の制度ができたのは1998(平成10)年頃。屋台も改修・改良を重ねられて、戦後はどんどん装飾が増えて今の形になりました。
どうして変わってきたか、それは氏子のなかに「昔のものをただ守り続けるのではなくて、よりよくしたい気持ちがあるから」です。
子供歌舞伎は、屋台の大改修を行った際に、江戸時代~明治初期に屋台先芝居を行っていたという記録が見つかり、そのわずかな記録から復活させましたし、屋台を曳く装束を一新する町もあります。
2日間のスケジュールも年によって変わっています。例えば起し太鼓は、1960(昭和40)年代までは19日(試楽祭)の夜中12時を回った20日から朝の4時にかけて行われるものでした。起し太鼓には、本楽祭の始まりを告げるために町民を起こすために行われますから、明け方まで行われたわけです。それが観光でお越しになるお客さまへ配慮するために19日の22時~翌20日の深夜2時に変わり、さらに1998(平成10)年以降は19日の20時~翌20日の深夜12時30分になりました。
これに伴い、19日の夜に行っていた屋台の夜祭(提灯をともして屋台を曳行する奉納行事)がタイトになったので、これは20日の夜に行うようになりました。しかし、これは奉納行事なので、神輿が神社にお戻りになった後に行っては意味がないのではないかという意見や、観光の方のためにも19日にまとめたほうがいいのではないか、といった意見もあり、いまだに議論が重ねられています。
もっと良くしよう、賑やかにしよう、晴れやかにしよう――。話し合って、新たな案のほうがよければ、直して、続けていく。氏子たちには、そういった思いが共通してあるんです。変わっていくことが古川祭の真骨頂なので、時代に合わせた追求を続けていきたいですね。
ライター:干川美奈子 撮影:早坂直人[Y's C]
写真提供:飛騨市
どうしても奇祭と呼ばれる起し太鼓ばかり注目されてしまうのですが、それでは古川祭の3分の1しか体感できません。19日午後に行われる神輿行列と屋台曳行が試楽祭で、夜に起し太鼓があり、本番は20日です。ここで屋台の曳行があり、夕方神輿が神社に帰っていきます。夜に屋台の夜祭もあります。神輿、屋台、起し太鼓の3つを、ぜひご覧になってください。
起し太鼓の見学は、大変な混雑が予想されます。消防団がガードしているものの、観光の方が寄せ太鼓の人たちの中に入ってしまうことがまれにあります。そんなときには「押し返す」こと。人は押せば前に行きますから、自分はそのすきに外に出る。転んでしまうのが一番危険なので、十分注意してください。それから、4月の飛騨古川はまだ寒い日も多いですから、防寒対策も忘れずに。
年によりますが、古川祭は一般の観光客の方も参加ができることがあります。
起し太鼓は、高張提灯や丸子提灯が連なる幻想的で美しい提灯行列に先導されます。
この丸子提灯行列に、住民と一緒になって参加し、古川の町を練り歩くことができます。
古川町は意外と飲食店が少なく、祭りのときにどこもいっぱいで困った、という声をよく聞きます。飛騨牛や漬物ステーキなど、飛騨名物を提供する店もありますから、ぜひ味わっていただきたいですし、事前に予約しておくことをおすすめします。
【古川町飲食店情報】※別ウィンドウで開きます
飛騨ごちそうさまっぷ